ご挨拶

弊社は、1919年(大正8年)11月、東京芝白金の地で創業し、2019年11月に創立100周年を迎えます。松下幸之助が二股ソケットを考案したとする年とほぼ同時期であることを考えると、当時の電線製造業はその後の電化の時代を見据えた、今でいうベンチャー企業そのものであったと思われます。日本のこの百年の歴史に当てはめると、創業間もなくの関東大震災の壊滅的な破壊からの立ち直り、第二次世界大戦中の桐生への工場の軍需疎開、敗戦の焼け野原からの再出発、顧客大手電機メーカーの工場の海外移転、バブル経済の崩壊、リーマンショックなど数々の逆風が吹きましたが、この多くの試練を乗り越えてきた先輩社員には畏敬の念を持たざるを得ません。

私が斉藤コード製造(現インターワイヤード)に入社してすでに40年。インターワイヤードで最も古い現役社員の一人になってしまいました。100年の会社の歴史の中で約40年間当社に勤務していたことになりますが、子供のころの記憶の中に当時の斉藤コード製造に関係するいくつかのことを思い出されます。

今から50数年前、私が、小学生のころの記憶ですが、2代目社長の父斉藤義滋が家にキャブタイヤコードを持ち帰り、家族(祖母、叔母、父、母、姉妹、私)総出で端末のむき出し処理をしていたこと、中学生時代は会社の野球チームに同行し、たまには選手として親睦試合に出させてもらったこと。当時の斉藤コード野球部は年間数十試合の対外試合をしていたと記憶しています。ある夏、悲願の東日本電線工業協同組合野球大会初優勝を果たしました。トラックの荷台に揺られてグラウンドで泥だらけになったユニホーム姿の野球部員が降りてきて、自宅広間で大宴会をしていたことは、今でも脳裏に浮かびます。本当にみんな嬉しそうでした。

昭和50年代、本社工場には、火燃し当番(ひもしとうばん)がありました。工場や事務所の可燃ゴミを焼却炉で朝から夕方まで一人で燃やし続けるという、今では考えられない(環境、労働衛生上)当番でした。その焼却炉の横には、当時京浜東北線からも見えたという斉藤コードの煙突がそびえ立っていました。

不思議なことに夏の暑い日の当番なのに燃え盛る炎に魅入られて、知らずに熱中症になるという苦行でした。

1990年ごろ全国の中学校、高校で情報教育のために各学校にPC教室の設置を義務化する法案が通り、通称PC-SEMIと呼ばれるシステムのためのケーブルを年間5万セットも受注をしました。全社を挙げて製造加工に取り組み、特に整線ロボット5台を24時間フル稼働すべく、郡山工場に岩手の若手社員を送り込み、夜勤でロボットを動かし続けたり、神奈川県秦野の山の中の協力工場で夜間ロボットを動かすために、S.K君を単身で送り込んだり、社員の皆さんにはずいぶん無理なお願いをしてきました。真夜中にそっと山の中の協力会社に陣中見舞いに訪れた際は、外壁をいろいろなところから叩いて、不審な音をたてて、他に誰もいない山中の工場で一人不安におびえながらロボットを稼働させていたS.K君を震え上がらせたのは私です。いい思い出です。ごめんなさい。彼が、そのあとまた一人で上海に赴任することになるとは。

1999年の社名変更 斉藤コード製造からインターワイヤードへ

創業80周年にあたる1999年に斉藤コード製造はインターワイヤードに社名変更しました。当時コードという言葉よりコードレスという言葉のほうがCMなどでよく耳にするようになっていました。また、いち早くインターネットビジネスを始めたのに、名が体を表さず、インターネット関連の営業に伺っても、電線会社が??と不思議がられ決してポジティブにはとらえられていないように感じていました。

当時WIREDという最先端のインターネット雑誌がアメリカで創刊され、当時のネットビジネスに興味を持つ若者に人気の雑誌だったこともあり、新社名を考えたときに、インターネットのINTER(中間に介在するという意味の英語と、WIRED(電線、光ファイバーなどでネットワークされたという英語)を組み合わせたINTERWIRED(インターワーヤード)という造語を思いつき新社名にしました。これは今でも大成功だと思っています。

写真でしか見たことのない創業者の祖父斉藤義国について

今から25年前に遡ります。暮れも押し迫った夕方のことでした。当時斉藤コード(現インターワイヤード)の営業部員だった私は、NECの府中事業所に電線の納品に行きました。当日は本社の忘年会が予定されており、その時間を気にしながら営業車から社名入りのダンボール箱を所定の納品場所に積み上げていました。「斉藤コードさんかなつかしいな」という声に振り返ると 見覚えの無い60過ぎと思われる男性が立っていました。NECの嘱託社員として働いているのでしょうか、胸にNECのバッチを着けていました。「うちの会社のことをご存知なのですか」と私は尋ねました。「ああ、大森にある会社でしょう。電線を作っている」とその方が答えました。そして、彼は少し遠くを見るように目を細めてこんな話を私にしてくれました。

「わしがまだ子供の頃、そう10歳ぐらいの頃。当時父は大田区蒲田で電線用の銅の卸売りをしていた。ある8月のうだるような日の昼下がり、父が、都合で納品に行けないので、おまえがこの銅線を納品してくれ。行き先は大森水神町の斉藤コードだ、と言って、自転車の荷台に重い銅線の束をくくり付けた。なんでこんな重いものをとぶつぶつ言いながら中々進まない自転車を汗だくになってこいで斉藤コードの工場に着いた。納品を終え、汗を手拭でぬぐっていると、その様子を見ていたのか、社屋から一人のおじさんがでてきてS商会の息子だな。この暑いのにえらいな。と言って頭を優しくなでながら幾ばくかのお金を握らせてくれた。わしは子供ながらに、自分のしたことが誉められたことがすごく嬉しくて、その日の帰りのペダルの軽さを今でも忘れないよ」という話でした。

私は創業者の祖父や私が16歳の時に40代で志半ば他界した父の働く姿を、実際にこの目で見たことはありませんでしたが、偶然にこの話を聞いたことで、経営者として最も重要なことは、「出会った人との縁を大切にすることである」と数十年の時空を越えて創業者の祖父に教わったような気がしました。

インターワイヤード株式会社
代表取締役社長 斉藤義弘